ガレコレ
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2015年9月2日(水)
安保関連法案を通すと義務教育の内容が変わる #政治・経済

 戦争ができる国になってしまうと叫んでも、今国会では、そうならないの一点張りで、このままでは通ってしまう。野党議員の質問内容の低次元さにも愕然とする。

 これらの法案が通ったら相手はどう出るかを考えて、次の手を抑えることを考えるのが策士であろう。

 いきなり、徴兵制導入にはならない。教育現場でも、軍事を語られることもない。

 もっとも心配なのは、『道徳』の時間である。2015年3月27日に学習指導要領の一部改正により、教科外活動であったものを、教科へ格上げしている。授業時数は、週1時間となる。

 自分たちが、子供だった頃、『道徳』の時間は国語の延長線上のようなもので、あやふやなものであった。道徳をなぜ真剣に考えないのかと、不甲斐ないと思った程だ。我、多と異なることを望み、『同得』みんなと同じ方が得と皮肉ったこともあった。

 それもそのはずで、戦前に『修身』という教科があったが、1958年『逆コース』の流れの中で、『道徳』として復活した経緯から、教育現場に戸惑いや葛藤があったのだろう。

 そして、おそらくこの道徳の時間に異変が起きる。道徳の内容項目は多岐に渡っており、まんべんなく行えるとは、到底考えられない。「規則の尊重」「公正、公平、社会正義」「国際理解、国際親善、国際貢献」といったところに偏重されれば、不安が大きくなる。

 甲子園もあれでいいのかなあと疑問に思うこともあるけれど、集団行動と言ったところに軍事色が帯びる恐れがある。

 若き日の自分も、集団という毒に侵されて、後悔することをしてしまったことが多々ある。集団の長になることを遠ざけてきたのも、その毒を制することが未だできないと感じているからかもしれない。

 「友人であれば仲裁を美徳とする」という考えは、集団的自衛権を主張した時点で失われる。「助太刀いたす」という時代劇でのセリフが増えるかもしれないね。仲裁は命懸けなのだが、第三者はもちろん、仲裁するほうも安易に考えるのが、平和ボケした日本であろう。子供の頃に、仲裁で死んだ人がおられて、自分の生涯問答となっている。

 歴史は、戦争の積み重ねである。自分たちの習ってきた日本史や世界史は、文化より戦に偏っていた。戦の記述においても、英雄と悪役を並べて覚えるだけの受験勉強用であった。ある意味、こんな教科書しか作れない人類は、戦争を否定することは歴史を否定することとか言って、いつまでも戦争を繰り返すのであろう。
 
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