ガレコレ
Garage Collection
 
2013年10月27日(日)
特定秘密保護法などについて #政治・経済

 世代によって、世界観や人為的教育が起因して、タイプが作られる。トドロまでの幾学年かはゼネラリストであり、次の学年から数年間はスペシャリストであり、線引きができると、学生時代に強く感じたもので、今でもそのような場面によく出くわす。

 その下は、スペシャリストが発散して、トドロにとってもよく分からない世代が続く。中には、ゆとり世代と今でも揶揄される可哀想な世代もある。トドロは、丙午の学年なので、一生こう言われるのかと思うと、余計に同情の念が湧く。最近の世代では、世界進出指向でないとダメという傾向が強調されており、コミュニケーション力が高くなったとも称されている。学年や世代でもって、個人の行動まで括られるのはしゃくだが、B型だからこうだと言われるように、群体と個体との間には、ある種の洗脳という過程が介在していると考えている。呪縛に似た世代括りから、逃れることができる人は、本当に一廉の人物なのだろう。

 さて、トドロの世代の上は、どうだろう。真上の世代は、「落としどころ」という言葉が好きで、トドロも多分に影響されている。その上の団塊の世代を含む世代では、二枚舌の人と多く出会った。過当競争で生き抜くための適応力なんだろうが、トドロがいい加減な奴らと最も嫌うタイプだ。安倍晋三さんは、60才。政治家は、二枚舌を持っていなければやれないという思想のもと、妥協を模索している人だと思う。ただ、本人は、二枚舌をそう使っていないと考えているようで、誠実な人を演じており、自覚していない分一層性質が悪い。

 『特定秘密保護法』が、このままでは通ってしまうが、大変な悪法である。アメリカで元CIAの暴露があったり、日本国の機密がダーダー漏れで国内外に不信が募っていたり、政治家としては急務の法律案となっている。アメリカでの暴露内容を考察すると、犯罪というより国家の信頼関係を損なう行為までが機密になっており、結局由々しき運用に至っている。まあ、どちらが背信行為なのかは一目瞭然なのだが、内部告発が悪とされてしまうのが、世の中の常である。

 情報と言うものは、鍵のない箱にしまったようなものである。部屋の手前にあるか奥にあるか、机の上に置いてあるか、引き出しにしまってあるかの程度の差である。情報を、永久に封印することなどできる筈がない。

 期間を決めて、機密とする手法がある。ケネディー暗殺事件は、2039年に極秘文書が公開される。まあ、重要書類は紛失したとか、改ざんがあった可能性があるとか言って、むやむやにするだろうが。つまり、保管の担保は全くなく、公開されても不信感が募るだけである。また、期限より先に知ろうと努力される犯罪者と呼ばれる人も生み出すことになる。

 大学時代に、日本史で「聖徳太子は作られたもの」と受講したことがある。飛鳥時代は歴史として認識するには無理があると、子どもの頃から思っていたので、この説は面白く、今でも記憶に残っている。つくられた物語では、時代背景は考察できようが、後世において歴史として参考にするには適切ではない。若い世代では、生前の名称で統一するということから、厩戸皇子でないと通じないが、情報を少しずつ修正しようとする力が働いていると感じている。まあ、神話とすれば、全て丸く収まるというものでもなかろうが、情報が捻じ曲げた場合、真実とは異なっていても貫こうとする力が働く。信心や宗教には、愚かなことだと分かっていても伝えなければならない縛りが生じもする。

 世界の半分は機密でつくられているのかもしれないが、機密が漏れたときのリスクを考慮せずに、今日まで突き進んできたに過ぎない。スマホやネットワークが普及した今日、情報の垂れ流しも困るが、常時監視されていると考えるべきである。メール、ホームページ、ブログ、SNS、インターネット検索、携帯電話、クレジットカードは、監視しやすい対象物であることは言うまでもない。国家機密とするならば、大前提として、都合の悪いことや恥ずるべきことを、機密としないことだ。

 古来、石高も重要機密事項だったが、豊臣秀吉が行ったとされる太閤検地は、のちの徳川時代における平安に一役買っていると思う。お互いの力が分かれば、無闇に戦いは起こせない。機密で無くすることが良かった例として、挙げておく。

 法律を単に通せば良いというものではない。通す前に何千というケースに即答できて、初めて法案と成せると考える。ケースバイケース、臨機応変、想定外という言葉を軽々しく使うものではない。事前審議がほとんどなされていないだけである。福島原発戦争に関して、暗黙の了解で国家機密としていることが多々あるが、国会で具体的に列挙できる政治家はいない。

 1つの法律は、目的があり、役割があり、そして寿命があるシステムである。もちろん、日本国憲法も寿命を逃れられない。システムには人が含まれ、人はシステムから見れば、バグだらけの歯車である。システムは、誤作動もすれば、暴走もする。あと付けの解釈など、暴走に等しい。暴走のあとは、陳腐化しかない。

P.S.
 
このブログの一部は11月3日にブログしようと暖めていたものだが、書き進めている内に踏み込んでしまった。吐き出してみたが、どうしようもないという気持ちは拭い去れない。
 
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