日課になっている自転車で、奈半利駅へ向かいました。あれ?物産館無花果、臨時休業か。そこで楽園に行くと、夜に宴会が入り、支度でお昼は休みとのことで、良かったね。その他の馴染みの店も、ずっと閉店中。近年しばしば言われている奈半利町あるあるで、ランチ難民になってしまいました。
仕方がないので田野駅屋@田野町で、えりちゃん弁当を食べました。奈半利町の地域振興券を使うつもりだったので、スーパーに寄る余裕がありません。さて、どうしようか。
そうだ、二十三士公園のリュウゼツランを見に行こうと、Uターンします。ほんと、短期記憶が当てにならなくなってます。自転車漕いでいる内にすっかり忘れて、無意識に、いつも行く向かいのたのたの温泉に入ってしまいました。
サウナでは、1年前に起きてしまった長浜小学校児童プール事故が話題に出ました。ご冥福をお祈りします。多数決ではなく、父兄80%賛成したらプール授業再開のところ、79%賛成であと1人だったそうです(裏は取れていません)。
自分もシュノーケリングガイドや潜水作業をしていたので、水の怖さは身をもって知っています。パラオでの研究で小さいサメが頭上をかすめたり、室戸での生物調査で水深10mでエアーが出なくなったり、1人で素潜りしていて低血糖のためブラックアウトして浮き上がったり、気をつけているつもりでも死とは隣り合わせでした。でも、上記のヒヤリハットは、自分自身が納得しないまま実行してしまった結果であり、回避できたと考えています。
また、亡き親父が、夏休みともなれば、プールや海に毎日のように連れて行ってくれたのは、オリンピック選手になって欲しいからではなく、溺れないようにとの願いからでした。
そんな親父は、幼馴染の弟をプールで助けて、人工呼吸して水を吐き出させたこともありました。深いプールの底をタッチできることが、子供たちのステータスだった時代です。
また、別の幼馴染は、体脂肪か少なく、水には全く浮きませんでした。それでも、中学校の授業では、歩いてでも25m進まさせました。もちろん冷やかしもありましたが、1人で歩く最後のスイマーを、みんなで見守ったものです。
平泳ぎが上手だからと、小学6年生で新湊市の水泳大会に出たこともありました。誕生日が3月24日で学年で2番目に遅く、小学6年夏は学年で2番目に小さく、卒業までに少し伸びて、中学1年入学時146cmでした。深い50mプールで1度も端から橋まで練習する機会もなく、ぶっつけ本番でした。炎天下で日陰も無く、最終競技種目で疲れ果てていましたが、2着で泳ぎ切りました。しかし、全員がバタ足で泳法違反となり失格。
のちに、小学校に25mプールができて、指導者もつき、妹が水泳選手もやってましたね。自慢の妹で、陸上・水泳・音楽に長けていましたが、自分と同じで体がそんなに強くなく、甥っ子には親ガチャ外れと言われているそうですが、自分の限界を経験して生きている人間は強くて美しいものです。いずみたくの最後の卒業生でもあり、舞台でしょくぱんまんをやっていたのは、黒歴史なのかな?
話を戻すと、50年近い昔の教育現場は、水泳だけに限らず、当時も今でも無茶苦茶にも思えます。でも、自分は死ななかった。戦地で死ななかったという感覚に近いのかも知れません。この差を分ける要素に気付かなければ、いくら安全マニュアルを作成したところで、変わりはしません。昔話ばかりで恐縮ですが、人に語れる・人が語ってくれる武勇伝(経験)が、その人の真の財産です。古いおじさんたちは、皆そう思っています。
自分は、合気道を指導する立場にいますが、技術以前に徹底して伝えていることがあります。
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①合気道は人殺しの術。
②いい気になり過ぎたり、ふざけたりしない。酒の席などで笑いを取ろうとするなら、真剣に徹底的にやれ。
③自分の痛みや、相手に怪我させたことを忘れない。
④毎日、少しの暇でも練習しろ。文字に起こしたり、人に話ししたりするのも、稽古の内。
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まあ、一番弟子にさえ半分も伝わっていませんが、自分がそうだったように、自分が亡くなってからでも、真剣に向き合ってくれたらなあと願っています。彼は、理解欲が高く、かつアレンジャーなので、自分とは別のやり方を模索してくれるものと思っています。
サウナ2回、お風呂4回、日向ぼっこ1回、1500歩など運動。体重は69.5kgか、もう少し食べようかな? 風呂上がりのビン牛乳で、充実度1000%🥛
コーナンに寄って、カードでニャムニュンの猫砂・餌と虫対策グッズを買いました。あとは、網戸だな。
自宅に帰って、「ああ、リュウゼツラン忘れていた」と気づいた次第です。花が咲いているらしいので、週末に行ってみよう。
https://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/20250702/8010023911.html